〜 風を、あげる 〜
風は、ただ吹いている。
その風を、あなたにあげる。
* * *
このサイトは、ひとりの人間が、風を観察し、名前をつけ、毎日のように記録してきた場所です。
ここには、忘れられた風の名前を呼び戻し、まだ名前のない風には新しい名前を与える試みがあります。
皮膚で感じる季節があります。風から教わった、生き方のヒントがあります。

このサイトは、風が吹いてくるところです
もしあなたが、夕方になるとなぜか胸の奥がざわつくことがあるなら。
もしあなたが、SNSやニュースの情報量に、少しだけ息苦しさを感じているなら。
もしあなたが、季節が変わったことに、ある日突然気づいて、慌てることがあるなら。
もしあなたが、「ちゃんとしなきゃ」という声に、もう疲れているなら。
もしあなたが、ただ立ち止まって、深く呼吸できる場所を探しているなら。
ここは、あなたのための場所かもしれません。
* * *
* * *
なぜ風なのか ── 20年前のひとつの春から
風に名前をつけるようになったのは、2024年9月から。
でも、風に興味を持ち始めたのは、2005年の春のことで、この時、初めて風速計を買った。
私は一人旅が好きで、学生の頃から、年に1、2回はリュックサックを背負って、旅に出かけた。そして、旅先では、レンタサイクルを借りて、その土地をまわることが多かった。その時に常に感じることは、「風」があること。
自転車に乗っていても、降りても、風は吹いている。
ふだんは、それほど気にしないのに、旅先では風が気になった。そして、自転車に乗っている時には「風に、なる……」と、ひとり、ひそかにつぶやいて、全身を吹き抜ける風を楽しんだものだった。
風が逃避先だった頃
そもそも、ひとりで旅に出かけるのは、一切のしがらみのないところで自由に自分だけの時間を過ごしたかったから。
職場にいれば、面倒な人間関係や社内政治に疲れてしまうし、難しい仕事や思い通りにいかないプロジェクトで胃が痛くなるようなストレスを抱えてしまう。
そもそも、1日のほとんどを、自分に合っているのかも自分が好きでやっているのかも分からないことで過ごしていた。
「本当に、自分はこの人生のままでよいのだろうか」と、毎日のように悶々と自問していた。
自分は、たいして仕事もできないし、能力もないと感じていた。
でも、会社の外に出たら、自分は生きていけないし、生きるために自分の時間を切り売りするような過ごし方をしなければならないと、毎日絶望していたのだ。
そうした悶々とした生活から、一時的に解放されるのが、夏休みやGWの休みを利用しての一人旅だった。
これは、現実からの逃避行でもあった。
そして、旅先の駅のホームに降り立った時や、初めて訪れる場所の空港から出た時に感じるのが、「風がちがう」ということだった。
当時のメモにも、意識せずに「風」という言葉をよく使っていた。
「爽やかな風に吹かれてどこまでも歩いてみたり」
「空と緑と風と」
「大の字になって寝転んで風の音を聴いた」
「地球って大きい。風が心地いい」
「スコーンと抜けるような青空と爽やかな風」
そうしているうちに、風速計を手に入れて、いい風が吹くと風速計を取り出して風を測ったりするようになった。
でも、当時は、風速の読み方もわからないし、測ったところで何をするわけでもなかった。ただ、「風速計で風を測っている俺!」みたいに、ユニークな試みに自己満足していただけだったと思う。
しかし、わざわざ風速計で風を測るなんて、なんの生産性もないし、何をするわけでもないし、そもそも面倒だし……ということで、だんだん風速計を持ち歩かなくなり、自宅のテレビの下でホコリをかぶるだけのアイテムになってしまった。
こうしたことは、よくあることなのかもしれない。
風を観察するという新しい習慣
そして、かなりの年月が経って、部屋の片付けの最中に、ふと見つけた風速計。電源を入れてみたところ、たぶん10年以上経っているにも関わらず、液晶の表示が出たことに驚いた。ところが、しばらくすると、表示が消え、新しい電池を入れても電源が入らなくなってしまった。
風速計は結構高くて、当時で1万6千円くらいした。だから、壊れてしまったからといって、わざわざ買うのもどうかと思った。でも、なんとなく昔を思い出し、なぜか、また風を測りたい、というより、風を感じたいと思ったのだろう。
ということで、2代目の風速計で現在は、風を積極的に測っている。
自分の生活の中にひとつのルーティーン、外に出るための口実としての習慣を得たいと思った。それが風を測る、ということだった。風に情熱を持っているとか、風マニアだというわけではない。
いつも吹いている風を、どのように感じたらよいのか。一期一会の風を覚えておくにはどうすれば良いのか。
昔、ただ意味もなく風速計を掲げて測っていたあの頃と違って、何か継続して記録しておきたいと思った。意味はない活動かもしれないけれど、やがて意味があるようにしたいという気持ちから、風のデータを記録するようになった。
そして、その風に名前をつけるようになったのだ。
※ 毎日の観測記録は「今日の風」コーナーで読むことができます。
名付けるという行為について ── 日本でいちばん短い詩として
風に名前、といっても、吹いてきた風に名前をつけるのは難しい。無色透明な空気の流れ、その時だけ吹く風に、どのように名前をつけたら良いのか。
そこで、まずは、日本古来から名付けられている風の名前に当てはめてみることから始めた。「薫風(くんぷう)」「東風(こち)」「春一番(はるいちばん)」「木枯らし(こがらし)」あたりは聞いたことがあると思う。そうした、すでにある風の名前と、観察した風を照合していった。
ただ、実際には、吹き抜けていった風が、本当に「薫風」という風で合っているのか、ということはわからない。その時に基準にするのは、季節であり、風の方向であり、気温であり、そして、風速だった。
ある意味、ひとり遊びをやっているに過ぎない。
しかし、そのうち、すでにある風の名前には当てはまらなくなってくる。それに似たような風だからといって、同じ名前にするのもつまらないので、自分で勝手に考えて名前をつけるようになった。
ただ、この名前をつける行為というのは、世界最短の詩でもあると思った。短歌は五七五七七の31音だし、さらに短い俳句は五七五の17音である。それに比べて、名前をつけるのは、これらよりもさらに短い。東風(こち)なんて、2音、2文字である。
でも、人の名前にだって、それなりの思いや願い、音の響きを込めるように、風の名前も、いい名付けができた時には、その風は思い出の一コマになる。
自分の人生の中でアーカイブされるのだ。
名付けというと、とても軽々しくできるものでもないと感じてしまうこともあるけれど、現在、知られている風の名前も、きっと誰かがこうして名付けたものが今に伝わっているのだと思う。
それに、自分ひとりが名づけたって、どうということはない。自由である。そして、名付けた言葉は、ひとつの詩であり、音楽であり、アートでもある。
風から教わったこと
毎日のように風速計で測り、皮膚でその感触を確かめ、風を迎え入れて、風を見送っている。
そうしているうちに、風は常に揺れ動いているし、変化し、同じ風には出会うことはないことがわかってきた。同じ名前をつけることはあったとしても、それは以前、体験した風ではない。そこには、風のはかなさと絶え間ない出会いと別れを感じたりもする。
そして、風にもキャラクターというか、性格や感情のようなものを感じることもある。また、自分自身の感情にも、ささやかに影響を与えるようなこともあることもわかってきた。
冬の厳しい寒さを携えて吹き付けてくる風は、普段の暖かい部屋のありがたさを教えてくれるし、初夏の清々しい風は、空気の動きがこんなに気持ちの良いものだとも気づかせてくれる。
季節の中で、風の表情も変わっていくし、同じような地点で風を感じていても、周囲の様子は時期によってだいぶ違う。
絶えず、風を迎え入れ、風を見送る行為の中で、一瞬一瞬が大事な時間であり、日々、その日、その時を大切に過ごそうと思える、というか、そのように自分に言い聞かせている機会にしたりしている。
風はただ吹いているだけだけれど、風は、無言で教えてくれることもあるのだ。
たとえば、心がざわめいて眠れない夜。頭の中をぐるぐると回っているのは、こんな声だったりする。
「いったい、自分はこのままでよいのだろうか」
「まだ、本当の自分を生きていないような気がする」
「どうしたらもっと楽しく生きることができるのだろうか」
こうしたことを学生時代からずっと考えていた。今でも、ふと立ち止まると、これらの問いが顔を出す。
ただ、ひとつだけ変わったことがある。
風が吹けば、その問いも、しばらく静かになる。
そして、いろいろあるこの世界の中でも、自分はまだ生きている。いろいろ大変なことや苦しいことがあっても、なんの意味をなさないようなことから、意味づけをして生き延びている、ということもあるかもしれない。
「この風は、北の冷たい空気を運びながら、南へ到達する頃には夏風になっているのだろうな」
「今日の風にはほんのりと香りが含まれている。金木犀の香りだ」
「この風に乗ったら、うまく上昇していけるのではないか」
「昨夜は嵐だったのに、今朝は穏やかな風だ。やがてよくなるということ」
こんなふうに、風に物語を感じたり、風から教訓を得たりする。
よくよく考えてみれば、風は自然現象なので、何か特定の価値を保有しているわけではない。でも、人間も自然の一部であるわけだから、いわゆる自然の法則に則って存在しているはずだ。
ということは、同じ自然空間の中で、他の自然物から学ぶことは多いはずだ。なるべく不自然なことはせず、風のように流れに乗って生きていくほうが、よりナチュラルである、なんていうことも感じたりもする。
この不確実な世界で、時間を整えることで、自分を助けることになっているのかもしれない。
なぜ私たちは風を忘れたのか
風そのものには、生産性はない。
風力発電など、経済活動に直接的に寄与するケースはあるけれど、日常生活での風の存在は、ほとんどないと感じている人も多いと思う。
それでも、詩や歌詞、絵画や映画、文学などでは風は重要なアイテムになっている。
私が調査したところ、「風」という言葉が入った曲名は3500曲以上ある。
そのくらい、アーティストは風をテーマに歌っている。
ちなみに、いちばん風という言葉が入ったタイトルを歌っているのは、2024年9月の時点では、松田聖子と松山千春の15曲。さだまさしが14曲だった。
それほどまでに歌われているのに、どうして、私たちは風のことをあまり感じなくなっているのだろうか。
やはり、ビジネスや日常生活、人生には役に立たない、ただの空気の動きだからか。
このあいだ、テレビでNHKの番組を見ていたら、AI特集がやっていた。AIが感じることができないこととして「風」があった。AIは風を感じたいらしい。AIが人間だったら「風を感じたい」とアウトプットしていた。
風を感じるのは人間の特性のようである。
そして、人生の最後に望むものは、お金を稼ぐことや仕事をやることではなくて、一筋の風を感じたい、風に吹かれたい。そんなふうに思うのではないか。結局、最後には、ただの空気の流れを望むという不思議な生き物が人間なのだ。
だから、この生きている瞬間にも風を感じることで、エネルギーが湧いてきたり、傷ついた心が癒やされたりもする。
もちろん、まさにつらい状況にいる人にとっては「風に吹かれて解決するなら、とっくに解決しているよ!」と、気に留めることもないだろう。
それでも、本当の最後の一瞬に求めるものは、お金をもっと稼ぎたい、とか、仕事をしたいということを所望する人は少ないのではないか。
「太陽の光に包まれたい」であるとか、「海を見たい」「桜を一目、見たい」「家族に会いたい、子どもに会いたい」「声が聞きたい」。
そして、「風に吹かれたい」と感じるのではないだろうか。
それは、きっと「自分は確かに地球という星で暮らした」という感触を最後の最後で味わいたいからだと思う。
結局、人生の最後には「風を感じたい」という、ほとんど意味をなさないようなことを最も望んだりするものなのか。
風は、ただ吹いている
風を感じることで、すべての悩みや課題が解決するとは思わない。
それでも、最後に望むものは、「風」かもしれない。
人間は苦しむことも多い。
でも、明日は明日の風が吹く。
嵐のような暴風でも、日が昇る頃には穏やかなそよ風になっているかもしれない。
今は、気持ちいい追い風が吹いていても、明日には逆風になるかもしれない。
風のように、この世は不確実性に満ちている。
でも、だからこそ、絶望のそこにあっても希望が見出せる。
* * *
風は、ただ吹いている。
* * *
